無法松の一生

●425 無法松の一生 1943

 小倉の街に無法松と呼ばれている松五郎が戻ってきた。彼は俥引きで、警察の師範と喧嘩をし頭をケガする。また芝居小屋にいつも通り顔パスで入ろうとしたのを切符切りに止められ、その報復として金を払って入場、場内でニンニクを炊いて困らせた。この件は地元の顔役の仲裁で一件落着する。

 ある日、松五郎は街で子供達が竹馬で遊んでいるのを目撃するが、その中の一人がケガをしたのに気づき、子供を家まで送っていく。子供は吉岡大尉の息子敏雄で、遺影にいた吉岡夫人は敏雄を医者まで連れて行くように頼む。夫人は松五郎に謝礼を渡そうとするが、松五郎は断る。

 話を聞いた大尉は松五郎を気に入り、家に呼び酒盛りをする。しかし大尉は突然病で亡くなってしまう。夫人と一緒に大尉の墓参りをした松五郎は夫人から敏雄を鍛えてやってほしいと頼まれる。

 松五郎は敏雄のことを気にかけるようになり、敏雄も松五郎に懐いていく。ある日松五郎は泣き虫である敏雄を元気つけるため、自分が子供の時に一度だけ泣いたと話す。松五郎は継母にいじめられ、働いている父親に会いに遠い場所まで出かけた時に泣いたと。

 ある日運動会があり松五郎も見物に行く。自由参加の徒競走に松五郎は参加、普段はおとなしい敏雄が松五郎を応援するために大声で叫んだのを見て夫人は驚く。松五郎は夫人に感謝される。

 敏雄も中学生になる。学校同士の喧嘩にも加わるようになり、事情を知った夫人は心配し松五郎に相談する。松五郎は喧嘩の場へ乗り込み、敏雄の前で喧嘩の仕方を教える。

 敏雄は街で松五郎にぼんと声をかけられるのを恥ずかしいと思う年齢になっていた。そいて熊本の高校を受験、合格し熊本へ行くことになる。

 夏休み、敏雄は学校の先生を連れて小倉に戻ってくる。祇園祭の最中で、先生は祇園太鼓を見物に来ていたが、今では本当の祇園太鼓を叩く人間はいなくなっていた。松五郎は自ら山車に上がり、本当の祇園太鼓を叩く。松五郎の脳裏には敏雄と過ごした日々が走馬灯のように蘇って来ていた。

 松五郎が亡くなる。彼の遺品の中には夫人からもらった祝儀が手付かずで残っており、さらに敏雄名義の預金通帳まで残されていた。

 

 「男はつらいよ」が昔から好きだったので、「無法松の一生」がその原点になる作品だと読んだことがあり、以前に観たことがあった。

 今回久しぶりに映画を観て、思っていた場面がなく、ストーリーも随分と簡略化されていたため、随分と戸惑ったが、映画に続いて放送された、ドキュメント「無法松の一生 数奇な運命」を観てその理由がわかり納得した。

 私が以前に観たそれはおそらく1958年版の映画であり、今回の1943年版のリメイクであり完全版とも言える作品だった。この1943年版は戦時中ということもあり、検閲で10分程度カットされた場面があるため、1958年版の記憶が残っていた私には違和感があったということ。この辺りの事情はwikiにも詳細が書かれている。そう言えばよく見るとラストシーンで画面を子供達が横切るが、彼らは雪だるまを作っていると思われ、映画では突然松五郎が死んだように思えるが、本来の脚本では酒を飲んだ松五郎が雪の中で倒れて死んだということになっている、その証なのだろう。

 同じ稲垣監督が完全な形で1958年版をリメイクし、それが金獅子賞を受賞したということに感動。

 ドキュメントでは撮影の宮川氏の二重撮影についても言及している。戦前の邦画はほとんど観たことがなく、よく同じ時期に製作されたハリウッドの映画を観てその凄さに感心していたが、日本も負けてはいなかったんだと初めて感じた。